三原支部設立以前(三原市歯科医師会史より)



明治時代

備後地方の草創期の歯科界は、明治20年代後半に尾道と福山に歯科開業医の記録があるが、その詳細については明らかでない。三原での歯科治療は、医師のほか一般には歯抜き、口中療治、入歯師などの非医者によって行われ、のちには出張診療に頼っていたのと想像される。
当時の三原は明治22年に町制施行、25年尾道と糸崎間に鉄道開通、翌年三原駅設置、27年糸崎と広島間鉄道開通。明治33年には糸崎港が特別輸出港に指定され、交通の便ともに産業が振興してきた時期であった。

明治36年

4月
大阪に全国の歯科医200余名が参集し、日本歯科医大会を開催。全国歯科医の大同団結が決議された。
5月
「備後歯科医会」(会長:宇田節之、会員7名)設立に三原の平野友士が参加している。ちなみにこの年の広島県の歯科医師数18名(内務省調査)。平野友士は三原で最初の歯科開業医とされ、芦品出身、明治20年代に福山、尾道で開業。三原(明治30年代)から更に尾道に帰り、のちに県歯会評議員、「尾道市ほか3郡支部会」会長、県歯会副会長を歴任した。
11月
「大日本歯科医会」発会式(会長:高山紀斎)日本歯科医師会の始まりである。次のとおり決議した。・本会は歯科医術開業試験規則改正の実行を期す。
・本会は歯科医育の完成を期す。
・本会は非歯科医取り締まりの励行を期す。

明治38年

8月
赤尾酔仙が糸崎を経て、三原「風月楼」に滞在して治療を行った。当時三原には平野友士が在住していたが、多くは尾道の宇田節之、岸田真喜太、黒瀬俊三の医院で治療を受けていたようである。
10月
赤尾酔仙が元喜楽園跡二階建てを改築し開業。書生には尾道児玉善助氏の紹介で生野米太郎を採用した。患者は三原、糸崎はもとより近島各地より来院したようである。酢仙は愛媛県出身で、明治31年高山歯科医学院に入学。33年卒業、翌年検定試験に合格。35年福山に開業、38年より40年10月まで三原で開業。のちに岡山、大阪に転出した。粋人として鳴らし、各界著名人と交遊。大正12年日本歯科新聞を発刊。昭和44年に西条市にて逝去した。

明治39年

5月
歯科医師法公布(2日)。歯科医師会の設立が始めて法律に定められ、歯科医師の身分と業務が確定した日である。銘記すべき日ということで、現在も5月2日は歯科医師記念日とされている。
〈歯科医師法より抜粋〉
第8条 歯科医師ハ歯科医師会ヲ設立スルコトヲ得歯科医師会ニ関スル規定ハ内務大臣之ヲ定ム
第9条 歯科医師会ハ歯科医事衛生ニ関シ官庁ノ諮問ニ応ジ又建議ヲ為スコトヲ得
12月
調査による歯科開業医は全国で868名であった(内、中国地方81名)。

明治40年

4月
新たに歯科医師会規則が制定され、都市歯科医師会が三分の二以上設立されたときに、道府県歯科医師会を設けることができると規定された。大日本歯科医会を日本連合歯科医会と改組。
10月
広島県歯科医師会設立発起人会が尾道「濤聲帆影楼」にて開催され、その参加者に平野友士、赤尾菊助の名が見えるが三原からか定かでない。なお、赤尾酔仙によれば「39年1月に広島県歯医会備後支部設立の会合。尾道の江半楼にて。出席者は宇田節之、岸田真喜太、甲田一雄、黒瀬俊三、赤尾要。欠席者は久保注連次郎、藤井通宏、藤井睦夫。平野友士、一橋幸三郎、小川鱒二」とあるが、備後歯科医会の会合であったとも想像される。同10月、酔仙が岡山に移り、兄の仙吉がその設備(木製治療椅子、足踏みエンジン、レーズ、蒸和釜など一式)の譲与を受け、治療所を引き継いだ。

明治41年

3月
「広島県歯科医師会」発会式。会長は富永省吾氏であった、
〈附記〉◇明治31年1月沼隈区会が取り決めた料金表によると、歯科医療に関係あるものとしては「抜歯料1本ニ付金拾銭、護謹充填1個ニ付金拾銭」(この額は傷創縫合術1針、導尿術1回、皮下注射1回に相当する)の記載が見られる。

◇昭和60年に赤尾尚氏が愛媛県歯科医師会報に『父、赤尾酔仙』と題した一文を草している。以下は三原関係部分の抜粋(原文のまま)である。「・・・父はその後も鞆を本拠にして、田路、百島、横島などの島峡部を初めとし、前記の走島、大崎島、生口島などへも転々と出張診療を続けては居りましたが、父の事を思って下さる多くの親切な方々のおかげで明治38年の夏の頃より、いよいよ着実な診療所を構える運びとなったのであります。それには三原の一流旅館である「風月楼」の主人金丸三郎氏が大いに父を信用して下さり、将来のためには宿屋住まいを断念して是非一家を溝えて開業せよと力説、みずから進んで斡旋の労をとって下されたのであります。乃ち折りも折り、恰度その頃に御調郡三原町松林小路(現在三原市)に頃合の二階建てがあり、それを借り受けて新たに玄関を設け、二階六畳を板敷として診療室にあて、芽出度く開業の準備が整いました。さてこの時の家賃が篤く勿れ1ヶ年わずかに25円でありました。因みに当時の歯科医師の収入は150円の月収ある者は上の部にあり、最低は20〜30円の者もありました。このようにして三原での2年間の開業は実に順風満帆の幸運に恵まれて過ぎたのであります。明治39年1月には広島県歯科医師会の備後支部が設立され、尾道の江半楼に於いて発会式がありました。その時の出席者は父の外に宇田節之、岸田真喜太、黒瀬俊三、甲田一雄の諸氏でありました。・…・・」◇赤尾尚氏の文献に基づき、昭和62年の第15回日本歯科医史学会及び学術大会で、長谷川俊夫氏(株 モリタ製作所)が『赤尾酔仙先生を偲ぶ』と題して発表。次のように述べている。「……私が初めて先生にお目に掛かったのが昭和5年(1930年)4月、森田歯科商店大阪支店に入社した時である。当時、第8同日本医学会に於いて嘱託として大いに活躍された時で、入社僅か旬日の間にお会いした。羽織袴に美髭を蓄えた堂々たる美丈夫であった。・・…・」<世相>明治38年:日本海海戦。シベりア鉄道完成。
42年:広島県立三原女子師範学校開校。
43年;大逆事件。
44年:三原町に電灯がつく。

大正時代

大正2年6月の県内歯科医師数は39名であったが、歯科医学の進展に伴う歯科教育機関の相次ぐ設立と大正5年、同14年の歯科医師法改正による制度の確立により、大正5年78名、同10年156名、同15年350名と飛躍的に増加していった。これに伴い歯科医師会の基盤も次第に充実してきたが、三原町単独では小人数のため、主として尾道を中心の活動がなされていた。記載の他にも数名の短期の開業ないしは出張診療があったようであるが、詳細については明らかでない。三原町は明治40年のスタンダード石油糸崎油槽所設立に続き、大正7年には日本ラミー紡績(現在のトスコ)が進出。2年には大正新開埋め立てが完成するなど産業が急速に活気を見せはじめた。
大正2年

10月
河野泰太が開業。

大正3年

赤尾仙吉が「桜陽化学工業所」を設立。昭和初期にわたって「アカオセメント」「鹿印ホワイトアロイ」「モデリング」を製造。それの販売は酔仙が当たり、中国人の蔡清徳(アモイ出身)を介して広く中国にまで販途を広げた。仙吉は剣道家としても京都武徳殿の範士で三原警察署の教官を務めた。昭和15年逝去。

大正5年

8月
歯科医師法改正。医師が内務大臣の許可なく、歯科を標傍し歯科治療を行うことが禁止された。

大正7年

4月
地方歯科医師会設立が統き「日本連合歯科医会」は「日本連合歯科医師会」と改称した。

大正8年

4月
関西歯科医師大会が広島市と厳島を中心として開催され、名古屋以西2府26県173人が参集した。河野泰太は準備委員会の余興係であった。

大正10年

2月
備南地区の開業歯科医の増加に伴い「備後歯科医会」は発展的に解散し、福山と分かれて「尾道市ほか3郡支部会」(尾道市、御調郡、沼隈郡、豊田郡)が設立された。支部会長に平野文士(尾道)、河野泰太が副支部会長に就任。

大正12年

3月
第2回総会にて役員再任。

大正14年

4月
歯科医師法改正。歯科医師会は強制設立となった。
5月
永井幸四郎が開業。
10月
海田義雄が開業。

大正15年

3月
改正歯科医師法に基づく歯科医師会合公布。
5月
新広島県歯科医師会設立。
9月
新歯科医師会合によリ支部会を解散し、新たに「尾道市ほか3郡歯科医師会』を股立。会長黒瀬俊三、河野泰太が副会長。豊田郡会員に西信優(昭和19年本会入会)の名が見える。
10月
平山玄二が開業(昭和31年編入合併で入会。当時は豊田郡佐江崎村)
11月
「日本歯科医師会」認可。

〈附記〉歯科器材は大正5年頃から技術向上時代を迎え、無ろう着蒸和缶、ポンプ式昇降椅子、電気エンジンなど輸入製品に匹敵する国産製品が次々と生みだされ、10年には歯科用セメント、陶歯の本格的製造も始まっている。森田歯科商店、而至歯科工業、松風陶歯などはいずれも大正年間の創業である。〈世相〉大正2年:大正新開埋め立て完成。
6年:ロシア革命。
7年:日本ラミー紡績株式会社(現在のトスコ株式会社)設立。
7年:米騒動。シベリア出兵。
9年:国際連盟成立回。
12年:関東大震災。
13年:沼田大橋開通。

昭和初期

昭和と改元になり「尾道市ほか3郡歯科医師会」の組織活動も充実してきたが、昭和11年の三原市制施行に伴い、名称が長くなるということで「広島県中部歯科医師会」と改称した。三原は昭和5年頃から片倉製糸、日東セメント(現日本セメント)、帝人三原工場などの創業が相次いだ。昭和11年に市制施行。人口も増加して、徐々に工業都市としての基盤が築かれた時代であった。
昭和2年

1月
健康保険法施行による保険給付及び費用の負担に関する規定が実施された。
3月
「尾道市ほか3郡歯科医師会」第2回総会。松永町「松鶴楼」にて開催され会員49名中30名が出席。議案は次のようであった。・予算案
・県歯会へ補助金交付方建議の件
・会員講習会開催の件
・講習会経費負担の件(1人2円に決定)
・会員章制定の件(否決)
・本会則は非医者の経営に関わる営利を目的とする診療所もしくは技工所に対し名義を貸与せざる件(撤回)12月
田中襄が開業した。

昭和3年

3月
第3回総会を尾道市役所で開催。出席28名。議案は次のようであった。・予算案
・会員中甚だしき規定違反をなしたるものに対し制裁実行の件(役員一任〕
・尾道市小学校児童診療に際し料金減額の件(5割減但し技工を含まず)
・小学校児童の歯科治療に関しその料金を減額するを得(可決)
・県歯会へ補助金交付方建議の件
・役員改選。会長、副会長(河野泰太)は留任。評議員に三原より海田義雄、国中襄が選出された。6月 
4日に第1回「むし歯予防デー」が実施された。日本歯科医師会歯科衛生宣伝部が定めたもので、“歯強ければ体まで”“歯清ければ心まで”の2文を入れたポスターを頒布。

昭和4年

3月
三原町会議事堂で第4回総会を開催。出席者26名、委任状23名、欠席6名。議事は次のようであった。・予算案
・講習会費廃止の件(可決)
・特別会計残金を本会計に繰り入れの件(可決)
・理事補欠選挙
・30年開業者表彰の件(可決)
・無届欠席者に対し処分の件(来年より過怠金徴収)
・報酬規定違反者に関する件(今回は戒告に留め今後は厳重措置)閉会後、「喜楽亭」で三原町長と警察署長を来賓に迎えて懇親会。
11月
尾道商工会議所で学術講習会を開催。東京歯科医専の西村豊治教授が「口腔外科ならびに治療」と題して講演。50名が参加した。

昭和5年

3月
第5回総会を尾道で開催し、副会長を改選した。
9月
臨時総会を開催し、辞任した黒潮会長の後任として日野義一郎(尾道)を選出した。

昭和6年

6月
尾道市医師会館で臨時総会。転出した日野会長の後任に岸田真喜太(尾道)を選出。
6月22曰に学校歯科医令が公布された。

昭和7年

3月
総会にて役員再任を決定。この年の県下会員数353名。三原近辺の歯科開業医は既述の外には、昭和初期に三谷、糸崎の林豊(昭和5年に開業、この年御調郡土生町に転出)林原(尾道)、日野(糸崎に分院を開設して尾道より午後出張診療。後に大連に転出)などの開業、または出張診療があったようである。
昭和8年
3月
松本正喜が開業。
昭和9年
3月
総会にて役員再任を決定。
5月
三宅幸夫が開業。
7月
岸田恒樹が開業。

昭和10年

7月
尾道で東京高等歯科医学校の槍垣麟三教授による学術講演会。
10月
辻確郎が開業。
この年、時の渡辺庄三郎町長と沖野、松本との話し合いで、学校医と同様に学校歯科医設置につき同意を取り、学校歯科活動が始まった。
当初は1名、翌年より次第に増員(市制20周年表彰に学校医は郷田、田村、歯科医は辻、松本が受賞)なお、この年の県内学校歯科施設に関する調査によると歯科校医は小学校107校、86名であった。

昭和11年

3月
広島県歯科医師会第12回総会で河野泰太が評議貝に選出された。医制調査部委員に海田義雄。
6月
4日の第9回「むし歯予防デー」に市内幼稚園児の旗行列や紙芝居を行った。21日に広尾県学校歯科医会設立総会。理事に河野泰太が就任した。
11月
三原町と糸崎町、山中村、西野村、田野浦村、須波村が合併して三原市制が施行された。人口35,239人、面積70.61k・。
12月
三原市制施行に伴い「尾道市ほか3郡歯科医師会」は、12月20日に臨時総会を開催して会則の一部を変更。「広島県中部歯科医師会」と改称した。役員改選により三原からは会長に河野泰太、理事に永井幸四郎と松本正喜が選ばれた。

昭和12年

2月
広島県歯科医師会から中部歯科医師会への交付金102円(3歯科医師会と6支部会の合計は640円50銭)
4月
県学校歯科医会の教育事業として、ライオン歯磨口腔衛生部の高安光三講師による映画と講演会が三原小学校ほか2校で実施された。
6月
4日の「むし歯予防デー」に、三原と尾道で幼稚園児の旗行列を実施した。27日に保険歯科医懇談会(尾道、三原、御調、沼隈、豊田、賀茂、世羅)を三原市医師会館にて開催。30名が参集し、県保険課長と県歯河村副部長が来賓として出席した。
8月
三宅幸夫が応召。医・歯・薬関係応召者の合同歓送会。
11月
県歯会主催の学術講習会を三原市医師会館にて開催。
演題と講師は次のようであった。「歯科的装置による吃音矯正法」出原稔、出口弘(日大歯科吃音矯正部)
「総義歯調製時に考慮すべき理論と実際」沖野節三(九州歯科医専)

「舌側弧線の製作と補助弾線の応用法について」太田実(大阪帝大付属病院)

昭和13年

1月
厚生省が設置された。
3月
総会で役員改選。会長に鍋島一男氏(尾道)が就任。
4月
国民健康保険法制定。
6月
4日に「むし歯予防デー」を実施。標語は“正しい歯列に輝く健康”
8月
尾形菊雄が開業。
10月
目下義人が開業。
この年、医療関係者防空救護班の演習が実施されている。

昭和14年

5月
4日に「護歯デー」を実施。従来、日本歯科医師会が主催した「むし歯予防デー」は、この年から厚生省主管の健康週間(5月2日〜8日)に包含され、5月4日が「護歯デー」となった。
5月
坂井哲が開業。
6月
尾道市で保険医懇談会。
8月
尾道市で県歯会学術講演会。

〈余話〉『書生』
徒弟制度で、書生さんが年期を経て技工士に昇格した。書生は治療中、足踏エンジンを踏み、夏には先生と患者を扇であおいだ。昭和初期の不景気で失業者が多く、小道い銭程度の月給で書生がいくらでも雇用できた時代である。

『収入』
月に20人〜30人の患者が来院していれば、三原女子師範学校長の給料の倍額以上の収入があり、比較的裕福な時代であったらしい。納税に関しては、尾道の多額所得者を基準にして三原、豊田、沼隈と順次減額していたようで、税務署もトンブリ勘定ではあるが、合理的な方法を取っていたものである。

『電気エンジン』

8年にシオン電気エンジン発売。10年に歯科機械のほとんどが輸入禁止になり、国産品による設備機械の「電気化時代」幕開け。三原の開業医に普及したのはそれ以後と、思われるが、当時の広告に「当院は電気エンジンで治療する・・・…」などと良い宣伝になったらしい。後のタービンに匹敵する画期的な器具の出現であった。〈世相〉昭和3年:三原町役場庁舎完成。
5年:昭和恐慌。
6年:満州事変。
7年:5.15事件。
7年:日東セメント株式会社糸崎工場(現在の日本セメント株式会社糸崎工場)創業。
8年:ヒトラー内閣成立。
9年:帝国人造絹糸糸株式会社三原工場(現在の帝人株式会社三原工場)創業。
10年:三呉線(現在の呉線)開通。
11年:2.26事件。
11年:三原市医師会が設立され、会長に土肥賢一氏が就任。
11年:三原市制施行。初代市長に渡辺庄三郎氏が就任。
12年:日中戦争始まる。
13年:三原市庁舎(旧市庁舎)完成。
13年:国家総動員法公布。
14年:国民徴用命施行。
拡大する日中戦争:12年7月、北京郊外の蘆溝橋で始まった日中戦争の長期化を恐れ和平条件を国民政府に示したが、その過酷な内容に回答なし。13年1月、近衛首相が「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず」という有名な声明を発表。

「国民政府を対手とせず」は誠に結構だが、「国民、政府を対手とせず」ということにならないかと戦争の将来を考え、暗澹たる思いにとらわれる者も少なくなかった


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