三原支部設立以後 (三原市歯科医師会史などより)



三原支部支部会設立以降

支部会設立の頃

昭和15年、河野泰太支部会長のもとに会員11名でスタートした「三原支部会」は、17に施行された国民医療法の官選歯科医師会合により「三原支部」に改組された。健民運動の一環としての「むし歯予防デー」、体力管理医(歯科)の委嘱、兵舎での防空救護訓練など、次第に戦時色に塗りつぶされていった。厳しい統制下での窮乏生活が始まり、開戦当初の戦勝ムードも後半から暗転して、会やその子息の応召も相次いだが、犠牲者はなかった。三原市の戦没者数2,O00有余名。
昭和15年

3月17日 
広島県中部歯科医師会は総会を開催。各郡市毎に支部会を設立する機運が高まり、会の解敵を決議した。
5月4日 
第13回「むし歯予防デー」を実施。標語「強い歯は母が作って子で護れ」
6月2日
「三原支部会」設立総会を開催し、会則その他を満場一致で可決した。
支部会長:沖野泰太
副支部会長;永井幸四郎
理事;海田義雄
   田中襄
11月4日
広島県歯科医師会に設立認可を申請。
11月7日
「三原支部会」設立を広島県歯科医師会が承認。三原市歯科医師会の始まりである。設立時の会員は河野泰太、永井幸四郎、海田義雄、田中襄、松本正喜、三宅李夫、岸田恒樹、辻確郎、尾形菊雄、坂井哲、日下義人の11名であった。


〈附記〉◇昭和9年頃からほぼ毎月、親睦を主とした集会を医師会館(妙正寺坂下)で開催しており、、これが会議と同様の役割を果たし、支部会設立の母体となった。この集会での話し合いにより松本正喜、辻確郎の両名が三原支部会設立準備委員に推薦されて会則などの原案を作成している。会館使用以前も、会員の白宅を会場(主に河野泰大宅)にしての集まりが月1同程度開かれていたようで、毎月の例会は、昭和48年からは円一町に新設された医師会館に場所を代えたが、現在も継続され本会の「和」の伝統の根源となっている。

◇広島県歯科医師会は3月21日に定時総会を開催し、皇紀2600年記念事業として会館を建設することを可決。会長は熊谷鉄之助氏であった。

◇歯科資材が配給統制となり、商工省告示の「馨科馨療器械販賣価格公定」によるとセメント練板が1円87銭、抜歯鉗子が3円10銭であった。(コーヒー一杯が15銭の時代である)3月に陸軍歯科軍医制度が誕生し、11月には「皇紀2600年記念歯科医学習」が島崎徹を会長として盛大に挙行された。(余話〉N大専門部歯科の材料学A教授が来三。レジン床に関する講演を行い、ゴム床義歯全盛の当時としてはかなりの反響を呼んだ。A先生帰京時に某会員が在学中の子息にと果物を託したが、ご自分で食され「美味であった」との一言だけが子息に届いた。〈世相〉三原市の人口は42,092人。市長は渡辺庄三郎氏、市医師会長は森忠男氏であった。
3月:汪兆銘、新国民政府(南京)を樹立。
5月:三原工業学校(現在の三原工業高校)開校。
6月:三原商工会議所創設。
6月:ドイツ軍、パリを占領。
7月:第2次近衛内閣成立。
9月:日本軍、北部仏印に進駐。
9月:日独伊3国軍事同盟調印。
10月:大政翼賛会発会。

☆日常生活においては6月にマッチ、砂糖、木炭などの切符制が始まり、8月には米の配給統制規制が公布され統制が著しく強まった。また神武天皇即位皇紀2600年に当たるとして、11月に盛太な奉祝の式典が開催された。昭和15年は我が国が未曾有の世界対戦への道をたどり始めた年であった。

昭和16年

5月4日
第14回「むし歯予防デー」を実施。標語「良い歯でよく噛みませう」
7月24日
県歯会は支部会長会議を開催し、警防上の件について協議。河野泰太支部長が出席した。
10月1日
三宅幸夫が中途復員。
12月23日
奥野範一が開業した。

〈附記〉◇国民体力法公布に伴い、支部会の推薦で広島県が体力管理医(歯科)として松本正喜を委嘱した。体力の向上を図るために管理するもので、対象とされた未成年の国民全員が検査を受け手帳を公布された。市医師会は体力管理医として17名を推薦した。男子中学生で未処置のう歯が6本以上あると、徴兵に際して問題になったようで、特に海軍が厳しく歯科の管理医は初期う蝕の処置を父兄に啓蒙した。

◇5月に海軍歯科軍医制度が誕生。〈世相〉3月:八原昌照氏が三原市長に就任。
7月:三原市内全域に町内合設置。
12月8日:太平洋戦争勃発(英米に宣戦布告、ハワイ真珠湾を奇襲攻撃)。

治安維持法改正:3月の改正で無党派文化人や自由主義者への適用、予防拘禁制の採用が行われた。開戦翌日の12月9日には、3000人以上の「危険人物」が予防拘禁された。

昭和17年

5月4日
「健民運動」の一環としての「健民運動う歯予防運動」強調日。第15回「むし歯予防デー」が実施された。
8月17日
厚生省保険院と日本歯科医師会が共催の「健保歯科診療講習会」が17日から3日間、岡山医科大学で開催された。県内から10名が受講。本支部会からは永井幸四郎副支部会長が出席した。
11月1日
『三原支部会」を三原支部に改組。国民医療法による官選の歯科医師会合が施行され、本支部会は「三原支部」と改組され「三原支部規定」を次のように定めた。

「廣島縣歯科馨師曾三原支部規定」第1條 本支部ハ廣島縣歯科馨師會三原支部ト称ス
第2條 本支部ハ廣島縣歯科馨師曾(以下単に本會ト称ス)ノ事業達成並ニ曾務遂行ノ爲事業ヲ行フモノトス
第3條 本支部ノ事務所ハ支部長宅ニ置ク但シ支部長ハ必要アル場合ハ他ノ場所ニ事務所ヲ置クコトヲ得
第4條 會員ヨリ本会ニ提出スル届書及其ノ他ノ文書ハ特ニ定メタルモノノ外本支部ヲ経由スベシ
第5條 本支部ニ左ノ役買ヲ置ク
    支部長 壹名  副支部長 壹名  幹事 貮名
第6條 支部役員ノ職務、選任方法及任期ハ本會々則第五十三條及第五十四條ニ依ル
第7條 支部常會ハ支部長之ヲ招集ス
第8條 支部常會ハ本支部所属ノ曾員ヲ以テ組織ス
第9條 本支部ノ経費ハ本會ヨリノ交付金常會費及寄附金等ヲ以テ之ヲ充ツ
第10條 支部長ハ支部常曾ニ誇リ常會費ヲ徴収スルコトヲ得
第11條 本支部ノ會計年度及豫算ノ編成ニ付テハ本曾々則第七十四條乃至第七十六條及第八十條ヲ準用ス
第12條 支部長ハ毎年収支決算及豫算ヲ作成シ支部常會ニ諮リ本會曾長ノ承認ヲ受クルモノトス
第13條 本支部ニ左ノ帳簿ヲ備フ
    1.現金出納簿2.備品台帳3.曾議録4.會員名簿5.發來翰綴
第14條 本規定ノ改正及本規定外曾務ニ関スル申合セ又ハ協定事項ハ凡テ支部常會並ニ本會會長ノ承認ヲ求ムルモノトス
11月29日
新県歯会の設立総会議員選挙を執行し、河野泰太を選出した。
12月26日
新県歯会の熊谷鉄之助会長が、県知事の許可を得て三原支部長に河野委嘱した。
副支部長:永井幸四郎 幹事:海田義雄、田中襄

〈附記〉◇3月21日に第20同県歯
定期総会開催。慰霊祭と開業30年会員表彰式が行われた。

◇歯科医師会合公布により日本商科医師会会長は内閣の任命、他の役員は厚生任命という国家統制が打ち出された。(世相〉4月:米B25爆撃機が日本本土初空襲。
6月:ミッドウェー海戦敗北。

昭和18年

1月
新広島県歯科医師会議員に松本正喜、予備議員、に岸田恒樹が当選した。
3月27曰
県歯会と広島県の共催で「社保事務講習会」を三原市医師会館で開催した。講師として県保険課から竹内課長と立石蕎氏、県歯会から岡田副会長、浅野専務理事、森田保険部長と大森書記長が出席した。出席者は近隣都市て48名であった。
6月5日
三宅幸夫が応召。これに先立ち「海老闇」で医師会と合同で歓送会を会催。
6月20曰
県歯会事務所での支部長会議に河野泰太が出席。戦時下での事業の実施及び会務連絡事項などが協議された。
7月11日
支部常会を開催した。県歯会から野村管理部長、新谷企画部長が出席。
7月27日
体力管理医(歯科)に河野泰太と永井幸四郎が委嘱された。
9月
広島市と安芸郡地方の暴風雨による被害見舞い金として30円を送金。
10月10日
森田県歯保険部長を迎えて、「社保診療取扱懇談会」を開催した。
〈世相〉三原薬剤師会が設立され、初代会長は常磐忠氏であった。
4月:広島県立三原中学校(現在の三原高等学校)開校。
4月:三菱重工業株式会社三原車輌製作所(現在の三菱重工業株式会社三原製作所)が創業。5月:アッツ島の日本軍玉砕。
6月:学生勤労奉仕法制化。

合戦局の悪化に伴い法文系太学生・高一字生の徴兵猶予の停止が発表された。10月21日、粛々たる秋雨の神宮外苑競技場で出陣学徒の壮行大会が挙行された。

昭和19年

3月9日
県歯会費賦課書斎委員に河野泰太が委嘱された。
10月
戦時下会員の補習教育及ぴ練成講習会が、賀茂郡西条町日輪兵舎で実施され本会から河野、尾形、松本が参加。広島陸軍病院に1泊しての2日間の講習は日本歯科医師会派遣の講師による防空救護教育で、講習題目は口腔損傷、軟部損傷、骨折、火傷やガス傷などの処置と包帯法、救急用薬剤、防空救護機関の組織と運営概要であった。
12月1日
西信優が入会。

〈附記〉◇奥野範一が応召され、三宅と奥野の家族と会員が西宮八幡宮に武運長久の祈願。

◇12月に県歯の熊谷会長が勇退し、岡田注連太郎氏が新会長に発令された。〈余話〉物資の欠乏を色々なアイデアでカバーした。
・綿花、ガーゼの代用として、石膏で丸い玉を作り抜歯窩に咬ませて圧迫止血。
・パラフィン屑にアスベストの芯を入れてローソクの代用。《世相〉7月:三原信用組合(現布の三原信用金庫)設立。
7月:東条内閣が総辞職。
7月:連合軍がノルマンディーに上陸してパリ入城。


〈昭和20年代〉

敗戦による虚脱と混乱の中を昭和22年にGHQの指令により、官選の歯科医師会が解体され、新生「三原市歯科医師会」(会員数19名)が誕生した。しかし、20年代前半は物資不足に加えて、税務攻勢も厳しく、再建途上の健保制度が財政危機に陥り、厚生省が指導監督を強化するなど、全てに多難な時代であった。生活もようやく落ち着きを取り戻した頃から各地で開催され始めた学会は、新しい知識を渇望する会員でいずれも盛況であった。27年の第1回「母と子のよい歯コンクール」実施前後から、衛生週間行事を中心にした公衆衛生活動も徐々に軌道に乗り始めている。28年には医療行政の強圧に対抗するため初の歯科界代表を参議院に送った。
経済的な理由などで開業が難しかったことと、三原市の各工場がしだいに活況を取り戻したこともあってか、29年の市の会員数26名中、帝人、東繊、三菱の3病院歯科の勤務医が6名をしめている。この多難ではあったが、会の基礎固めの時期を4期8年三宅幸夫が会長を務めた。
昭和20年

4月
医師免許の特例が公布され、歯科医師が医師試験を受験できるようになった。
7月1日
呉市が空襲を受け大被害。数名の会員が救護に出動。
8月6日
広島市に原爆投下。岡田会長始め県歯会員多数が被爆死し、事務所が全滅。重要書類も消失して県歯会は潰滅的被害を受けた。
市医療関係者救護班の一員として次の会員が交替で救護活動に赴いた。
河野泰太、永井幸四郎、海田義雄、田中襄、松本正喜、辻確郎、尾形菊雄、坂井哲、目下義人、岸田恒樹、奥野範一(応召先の呉市から出動)
9月
奥野範一が復員。
10月1日
保険点数が改正され「歯科診療報酬点数表」が配付された。1点単価が35銭でアマルガム充填7点、抜歯(臼歯)5点、義歯は1床1歯に付きゴム床12点、レジン床13点であった。
12月15日
GHQの歯科医師会改組指令で、歯科医師会合改正の件が勅令により11月21日に公布された。12月1日から施行されることになり、常会を開催し県歯会新議員に沖野泰太を選出。

〈被爆者の救護について〉◇永井幸四郎の談話
「8月6日午前11時頃に三原警察署から救護班(医師、歯科医師、薬剤師、看護婦など)出動の依頼があった。警察署前に集合、トラック2台に分乗して出発。海田市を通って広島練兵場に到着した。広銀銀山町支店近くの警察署に到着を報告後、被爆者の治療に当たったが、医薬品が無くて赤チンを傷口に塗る程度のことしかできなかった。5寸釘の付いた板が背中に刺さった子どもを付近の人が足で抜く場面や、親の呼ぶ声に答える倒壊家屋の下敷になった重傷の子どもの叫び声が、昨日のことのように鮮明に思い出される」

◇河野泰太は昭和42年「広歯月報」に次のような投稿をしている。
『原爆の記録』…昭和20年8月6日朝、空襲警報解除後8時頃隣家の娘さんが「キレイな飛行機が通るよ」といったので外に出て見ると銀翼を輝かせて澄みきった青空を朝日を受けて西方に向う1機を見た。これが広島に原爆を投下したB29であったのだ。10時頃、広島が全滅だという報告を警察電話で聞き、即刻救護班派遣と決まり、とりあえず第1班が午後1時頃トラックで広島に向けて出発した。海田市より先は車が通らないので広島まで徒歩で行ったと後で聞く。交替の第2班を編成、8日出発の予定のところ、午後8時頃福山市に焼夷弾投下せられ全市焼野原となる。三原よりも天を焦がす紅の炎が見え、まるで月夜位の明るさであった。第2救護班を編成した者を福山行きとしたので広島の第1班の交替が1・2日過れた。第2班の一員として私も早朝貨車に乗って福山に着いた。下車して見ると町はいうに及ばず福山城も焼失し目も当てられぬ有り様だ。防空壕の入口や防火用水槽の中で死者を見た。又いたるところに負傷者があり悲惨この上なし。終日負傷者の手当に費やした。
15日広島行き
15日朝広島駅に着いて見ると、一面焼野原となり、まだクスブル煙がたちのぽり、悪臭鼻をつく有り様で惨状目も当てられずその極に達していた。トラックで已斐救護所に向かった。己斐救護所で終戦のラジオ放送を聞く。聞く人皆落涙一言も発する者なし。己斐、南観音、大河2回と延べ12日救護を行った。己斐救護所でひまをみて江波陸軍病院に入院中の長男を見舞うべく出掛けたが、乗物皆無のため徒渉で己菱を出て途中、将官旗を立てた自動車に出違った。2・3人の兵士がそばにいたが敬礼もせず、そのうちの1人の兵隊は「小便でもかけてやれ」といって本当に路傍に放尿を初めた。この目、この耳で見聞したこの状況で、いかに当時一般兵の上官に対する反感の強かったことが想像できる。
江波陸軍射的場を横切り、10数体を並べた火葬煙の中を歩みながら如何に被害が大なりしかを感じた。己斐では民泊であったが、この家の主人も県庁に出勤中に被儀死亡と聞き夕食用として配給の缶詰を霊前に供えて冥福を祈った。
救護の状況
火傷とガラス破片による負傷が大部分で医薬品不足のため充分の手当もできずただ赤チンの塗布とビタミンBの注射位のことしかできないのが残念であった。朝救護所に行って見ると校庭で幾つかの死体に重油をかけて火葬しており、惨たる有り様で各救護所共同様であった。
ハエの多きには困った。傷口にはウジがウヨウヨしており、リゾール石けん液で洗うとコロコロと落ちて洗面器にすぐ一杯になった。ハエは黒山となる程何でもとまるし、皮膚にとまって食い付くし、ウジはますます多くなる始末で閉口した。皮膚にとまって食い付き血を吸うハエには初めての経験で驚いた。
8月末か9月初めに水害により鉄道が不通となり徒歩で広島から三原に帰った班を最後に広島行きは廃止となった。原爆死の会員並びに職員のご冥福を謹んで祈る。

◇堀部菩克がその悲惨な状況を「閃光の証言」に寄稿している。
昭和35年本会に人会。当時広島市で開業、被爆。
「閃光の証言」:昭和60年発行、県南会編の被爆体験文集。〈世相〉4月:アメリカ軍沖縄に上陸。6月に守備軍全減。
8月:ポツダム宣言を受諾、終戦。
9月:GHQ設置


昭和22
11

新生「三原市歯科医師会」設立。会員数は
19名で次の役員を選出した。会長:三宅幸夫、副会長:岸田恒樹、理事:奥野範一、稲田杏、監事:井哲。世情も落ち着きをみせはじめ、渇望されていた学会が各地で開催されるようになり、公衆衛生活動も徐々に復活。

昭和
23

4月
第1回「備南歯科医学会」(尾道商工会議所)

昭和24
5月に第2回「備南歯科医学会」(三原市東繊会館)が開催され、いずれも盛会であった。


昭和27

第1回「母と子のよい歯のコンクール」を開催、
38組の参加があり5組の母子が優秀に選ばれている。


                       〈昭和30年代〉

昭和31
前年から始まった「歯の女王コンクール」の第2回大会で三原地区女王の檜山武子嬢が県大会でも女王。第2回全日本「歯の女王コンクール」(東京都市会館)では準女王の栄冠に輝く。
昭和
29年、31年に豊田郡の一部の三原市編入に伴い2名の会員が入会。

昭和31年に竹中日歯副会長、34年には鹿島日歯専務が参議院議員選挙に立候補。いずれも三原市で三百余票を得票して当選。46年に六百余票、55年には千票の大台を超える。会としての政治活動は連綿として受け継がれ、昭和62年には市長選に新人の溝手顕正氏を全員一致で推薦して後援会活動を展開。医師会、薬剤師会とも連携しての運動が結実して新人の溝手氏は当選の栄に。

昭和38
5月
「三歯会納税貯蓄組合」を結成。組合長
:岸田恒樹、副組合長:稲田杏、理事:船木三郎、赤尾 潔、永井幸八郎。以後、貯蓄組合からの還付金は本会の会計を潤し健全な組合として表彰もされている。
6月
歯の衛生週間行事として「歯牙供養祭」を開催。市内
29歯科医院の抜去歯を集め「妙正寺」で柴田月暁導師の読経で行われた。



                       〈昭和40年代〉

昭和
42

9月
「新生三原市歯科医師会満
20周年記念式典」を開催。桑木三原市長、河村県歯会長はじめ多くの来賓を迎えて盛大に行われた。市の行政トップと県歯会長の顔合わせは、口腔衛生についての行政の理解を得ることに利したとされている。

昭和45
10
第1回「県歯ソフトボール大会」(海田陸上自衛隊グランド)「三原・尾道・御調世羅・因島」合同チームとして出場。一回戦で福山チームと対戦してコールド負け。現在では三原単独チームとして参加し他郡市とも互角に戦っている。

昭和47

「三原市歯科医師会家族会」を開催。若きは1歳から老いは
72歳までの総勢38名が参加して盛会裏に終了。家族・従業員を含めての懇親の輪は、現在も「クリスマス会」として引き継がれ2年に一回、盛大に行われている。

昭和48
1
新「三
原市医師会館」が完成。本会も費用の一部を負担して会館の使用権を確保。現在まで例会などの行事に使用している。




                       〈昭和50年代〉

昭和50年代になると公衆衛生活動が活発化。特に行政との係わりをもつ事業が増加している。

昭和50
6
広島県・県教委・県歯会主催の第7回「母と子の歯の衛生展」を3日間に亘り三原市福祉会館で開催。多くの催しを企画し会員全員が準備や当日の分担など大車輪の活躍であった。会期中の参会者
6,016名。

昭和51
3

ライオン歯磨きの「たんぽぽ運動」参加者
252名。この行事は平成元年まで続いている。
10
第7回「こどもの歯を守るつどい」を開催。

昭和53
6月
「1歳6ヵ月児健康診査」が始まり、以後は現在まで毎月一回実施され会員が順次交替で担当している。

7月
「歯科助手資格認定講習会」を開講。講義は土曜日の午後に計
13回行われ、講師は会員が担当し実習は数ヵ所の医院に分散して実施した。資格認定者57名。

昭和54
1月
「労働保険事務組合」発足。事務は顧問税理士事務所に委嘱したが、団体加入は県内でも本会が初めてで、退職者や事故などでの休職者が恩恵を受けている。

昭和57
6月
「歯の衛生週間」行事として市内小学校一年生
1,305名に歯ブラシを贈呈した。給食後の歯磨きを奨励しても年齢相応のブラシが持参できない子が多数を占めていた時代。以後、歯磨きカレンダーや小冊子を一緒に配布しながら現在まで継続している。平成11年「歯ーモニーフェアー」と名称を変更し、事業としては三原市との共催で2歳児健診、中高年の節目健診を行い、他に歯によい料理の展示と試食、歯科相談、染め出し指導、虫歯菌の観察、フッ素洗口、図画ポスターの表彰を行っている。

  

                       〈昭和60年代、平成年代〉
昭和61
10

三原市市制施行
50周年記念行事の一環として「市民健康のつどい」3日間に亘り開催された。主催は三原市とNHKで歯科医師会と医師会、薬剤師会などの諸団体が後援した。総合テレビ「おはよう健康ジャーナル」で放映。それ以降、「市民健康まつり」として継続しており、平成9年には第1回「8020いい歯の表彰」を行い、市長と共に表彰状と記念品を贈呈している。

  
平成2年
11
三原市歯科医師会創立「
50周年記念式典」を開催。各界から39名にも及ぶ来賓を迎え会員39名が出席して盛大に行われた。50年の歩みをナレーションと共にスライドで紹介され功労者表彰の後に祝宴。50周年記念事業としては、市民の歯の健康に対する認識を高める目的で「歯みがき大好きアンパンマン」と銘打ったイベントを開催。約600名の参加者。また、明治36年から平成に至るまでの本会の歴史を写真を交えて記した200頁余の「三原市歯科医師会史」を出版した。

  
平成3年
12
「三原市老人福祉計画策定委員会・在宅介護支援センター運営委員会」が発足。以後、本会として係わることになった。4年度から3年間、幸崎町を推進
地区として「児童生徒等歯・口の健康つくり推進事業」が行われた。日本学校保健会から三原市学校保健会に委託された事業であったが、本会も歯科保健授業などの諸事業の計画・推進に全面的に協力

  。
平成5年
3月
会員向けミニコミ誌「混沌譚」を創刊。趣味についての投稿、新入会員紹介など号を重ねるに従って充実したものになっている。

平成8年
2月
大規模な事故・災害に対し三原市歯科医師会、竹原・豊田歯科医師会、賀茂・東広島歯科医師会と3地区所轄の警察署との間で「広島空港周辺歯科・警察連絡協議会」が発足。

平成11
10

「三原市介護支援専門員連絡協議会」が設立され「三原市介護認定審査会」が始まる。

  平成1212月本会「創立60周年記念式典」を開催し、会員15名が功労者表彰を受けた。

平成16
7月
子供への犯罪防止のため日本で最初の「子供
110番の歯科医院」を三原警察署と締結し、各医院へステッカーを配布。

平成17
4月
平成の大合併により久井・本郷・大和町が三原市と合併して9名が移籍入会した。

 




歴代会長  

沖野泰太(1522) 三宅幸夫(2230) 奥野範一(30年〜34)   

松本正喜(3438) 岸田恒樹(3846) 永井幸八郎(4650年)

船木三郎(5252) 海田勝文(5258) 田中 稔(昭5860年)  

松本島春(60平3年) 梅谷芳史(平3年6年)岸田 (平6年12)  

康義(1215) 山口隆志(平1519年)永井一夫(平19〜21)

坂内大造(2123) 伊藤弘文(平23